ビットコイナーじゃない友人ともう一緒に遊べない
大学時代の友人に会った。
大学時代はお互い貧乏で、たまり場と言えばドリンクバー付きのファーストフード店か、店員が異常に態度の悪い中華料理屋だった。
お金がないお金がないと言いながら、ノートを広げてテスト勉強しているのが常だった。
私はビットコイナー、彼は正社員。
給与はおよそ2倍差があった。というかもはやお金の単位が違かった。彼はボーナスもきっちりもらい、ビットコイナーの自分にはそもそも就職というコンセプトが存在しなかった。
それなのに妙に私は満足そうに暮らしていたから、むしろ彼の方が自分の生活をうらやましがっていた。
ただ、この前一緒に遊んで、思った。
金銭感覚が違いすぎる。
彼はどこのATMでお金を下すかで1 confirmation時間以上悩み、結局近くにATMを見つけられないし、引き出し手数料に文句を言う。
ビットコインなら常に自分が100%自分で管理できるのに、ひたすらにフィアット推しをする。
フィアットが悪いと言っているわけではない。ただ、フィアットは日ごろから使えるものだ。
1年ぶりに会う友人と談笑するために使う支払い手段としては、非日常感がないし、お札の汚れは感じるし、いささか心がときめくものではない。
ビットコインを受け入れているカフェを紹介すると露骨に嫌な顔をされた。
彼はビットコインの送金にかかる手数料も時間も惜しむのだ。1トランザクション手数料、10Satoshi単位でも、妥協したくないのだ。
それが1年ぶりに会う友人との時間であったとしても。
ファッションビルでビットコインで買えるジュエリーを見たいと思った。でも言えなかった。
結局フィアットで買った。
フィアットが悪いわけじゃない。私もフィアットを使う。
ただ「フィアットしか選択肢がない」自由のなさに、私は失望した。
たまの休み、非日常的な空間でビットコインで支払って、心がときめくようなビットコインTシャツやハードウェアウォレットを見ることはそんなに悪いことだろうか。
そんなにマニアックなのだろうか。
「怖くてビットコインなんて絶対買えない」と言い張り、たまの友達との時間ですら、「NISAとか不動産投資とか」言い続けている。
この人とはもう「遊ぶ」ことはできないな、と思った。
住む世界が変わったのだ。
生活にビットコインがないと生きていけない、アナキストのような私と、金融機関への依存を受け入れて地道に生きているアリのような彼。
この二人で価値観をすり合わせて「遊ぶ」ことは、学生時代はともかく、今ではもうできないのだ。
「また遊ぼう」というLINEに「遊ぼう」と返信して、「じゃあ何で遊ぶの?」と疑問がこみ上げた。
私がフルノード構築を提案しても、ホワイトペーパー勉強会を提案しても、Rarepepトレードを提案しても「フィアットで良くない?」で終わる。
もう一緒に遊ぶことはないだろうと思った。
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元ネタ(ほぼ完コピ笑)※ちなみに元ネタの記事のリンクはすでに壊れてました…。